映画『バースデー・ワンダーランド』レヴュー

映画『バースデー・ワンダーランド』レヴュー

★★★★★★☆☆☆☆ 6/10

題名の通り、主人公が不思議の国のアリスのようにワンダーランドに迷い込むお話ですが、冒険モノとしてはもう一つワクワク感が足りないし、成長物語としては表面をなぞっただけで心に響くものはありません。

大人も泣けないし、子供だましなストーリーと感じます。

現代のファンタジーの役割

誕生日という成長を暗示する節目の出来事が描かれていること、舞台となるワンダーランドで王子が生命を賭ける儀式に臨むというプロット的に、この物語が若者が大人になる過程、通過儀礼をテーマとしていることは明らかです。

人類のほとんどの文化では子供が大人になるに際して、何らかの儀式が行われるというのは文化人類学の教えることころで、有名なのはいわゆるバンジージャンプです。元々はバヌアツの成人の儀式で、本来はゴムひもや安全マットなどはもちろんなく、草のツルを編んだ縄だけを足に結びつけ木を組んだ高い塔から地面に向かって飛び降ります。下手をすれば生命の危険もありますが、それをやり遂げた者だけが社会から大人として認められるわけです。

近代以前の社会では大人と子供の間に「モラトリアム」などという期間はなく、ある日を境にそれまで子供だった存在が急に大人として扱われるようになります。それを受け入れるための仕組みが通過儀礼であり、それまで子供であった自分が死に、新しく大人として生まれ変わる、象徴としての死と再生の儀式です。

現代社会ではそうした機能を果たす「成人式」は失われて久しく、それ故に映画などのファンタジーに暗にそれを求め、またこうした作品が作られているとも言えます。

以下そういう視点でこの作品を見ていきます。

娯楽と化したバンジージャンプ

冒頭は主人公のアカネが友達とうまくいかず、学校をサボることがきっかけでワンダーランドへと迷い込むことになります。通過儀礼といっても今の日本で子供が命を危険にさらすような行為は非現実的で、ワンダーランドというもう一つの世界を用意し、その世界の王子の通過儀礼によって鏡像のようにそれを描こうというのはファンタジーの利点を生かした上手い設定です。

したがって必然的にこの物語の成否はこの王子の通過儀礼をどれだけ切実に描けるかにかかっているわけですが、この点がこの作品で最も失敗している点というのが正直な感想です。

まず王子の行う儀式は、上手くいけば王子には何の身の危険も伴わないもので、このことが通過儀礼としての意味合いを著しく損ねているとしか思えません。また、アカネによって王子に掛かった魔法が解け王子が儀式を行う事を決意をするくだりも、なぜそうなるに至ったかの納得のいくような説明や仕掛けはなく、雰囲気で流そうとしているようにしか見えない。最終的に王子は自分の身を捧げることになりますが、アカネは言わば巻き込まれただけで主人公として自らの意思で明確な行動を起こしたわけではないのも不満が残ります。

比較のために通過儀礼における象徴としての死と再生を成長物語として巧みに取り込んだ名作を挙げるなら、古典的には『天空の城ラピュタ』でしょう。心躍る冒険譚としても良くできていますが、パズーとシータの成長譚でもあり、滅びの呪文を唱える時に二人が死を覚悟していたのは明らかで、それ故にこそ新しい世界を手にします。

また近年では細田守監督の『時をかける少女』が挙げられるでしょう。真琴は本来なら冒頭で死んでいたはずですが、偶然手にしたタイムリープ能力でそれを免れ、束の間はそれを享受します。しかし、やがては自らの死を受け入れなければならないこと、つまりこれまでの自分に別れを告げ前に進まなければならないことを理解し、最後のタイムリープを決意します。

人生のある時期においては、象徴的にでも自らの死を賭して前に進まなければならないことがあります。しかしこの作品ではその覚悟と行動の描写があまりにも希薄で、まるで現代にレジャーとして定着してしまったバンジージャンプを見ているかのようです。子供向けだから安全なものを用意すればいいというのはその本質からして決定的な誤りであり、上挙げた作品の例を見てもそれは明らかだと思います。

良い点を挙げると

ストーリーを別にすればアニメ映画として中々悪くないのは惜しいところです。

抜けるような青空や夕暮れの赤い空、満天の天の川など、空の色調やその変化が非常に透明感のある美しさで印象的でした。

また猫化するアカネやモフモフの防寒具に身を包む一行などは作り手も気合の入れどころだったのか、かなりかわいいし笑いどころとして良いアクセントになっているとも思います。

しかしそういう点がかえって物語の表層的な印象を強めてしまっているのは残念です。